【第1話】清元秀泰のふるさと姫路への思い(1)

【第1話】清元秀泰のふるさと姫路への思い(1)

ひでやす誕生

私は、昭和39年の元日の夜、姫路市内の長瀬産婦人科で父、功章(こうしょう)、母、淑子(としこ)の第三子として生まれました。予定日を2週間も過ぎたころに生まれた体重4,200gもある過熟児でした。まだ、家庭に電話も普及していなかった時代、年末年始の忙しい時期でもあり、母は付き添ってくれる人もなく、一人で頑張って私を生んでくれました。母からは事あるごとに、「秀泰、おまえが生まれた元日の夜は、正月特別料金と夜間料金もかかった。だから学校は全部、金のかからない公立に行くんだよ」と、言われました。

虚弱で不活発、内気でひ弱な幼少時代

私は、飾東町清住という田舎の山村で育ちました。当時、父は県会議員を務め、母は農業と衣料品店を切り盛りする兼業農家の生活でした。8歳年上の長女と6歳年上の次女が忙しく働く両親の親代わりとなり、私を育ててくれました。長じて、長姉は病院の薬剤師となり、「シュバイツァー博士」や「野口英雄」の伝記を私に買い与え、医療の道を薦めてくれました。次姉は中学教諭となり、教育職の尊さを教えてくれました。姉たちはこのように折に触れ、私の進路にも大きな助言をくれました。
母は忙しく、私は3歳からは飾東保育園に通園することになりますが、早生まれで体格の小さな私は、虚弱で不活発、内気でひ弱な子どもでした。保育園に行くのが大嫌いで、送迎バスが来ると山の中に逃げ込んだりして逃げ回り、仕事に行かなければならない母をよく困らせました。

その後、谷内幼稚園、谷内小学校と進んだ私は相変わらず落ち着きがなく、教室を抜け出しては近くの天川で魚取りをして時間をつぶすことも度々。先生もすっかりあきらめていて、見て見ぬふりをしていたと思います。学校の宿題プリントは風呂の薪の焚き付けにしてしまうような子どもで、勉強が大嫌いでした。夏休みの宿題は毎年恒例行事のように絵日記、習字、自由研究も含めて8月31日になっても手付かずのまま。母も姉もあきれ顔でしたが、最後は夜中まで宿題を手伝ってくれる優しい家族でした。

谷内小学校は当時から、1学年に1クラスしかない過疎の小学校でした。クラス替えもなく、担任の先生も優しく、子ども一人一人に目の届く環境の中、学校が大好きで、友達と楽しく、元気いっぱいに通っていました。そんな小学生時代、私にとってその後の人格形成にも影響する忘れられない2つの大事件が起ります。

続く

<清元ひでやすプロフィール>

昭和39年(1964年)元日生まれ、55歳。
姫路市立谷内小学校、城山中学校、兵庫県立姫路西高卒。
香川医科大学へ進学し、医師となりテキサス大学に留学。
帰国後、香川大学附属病院講師を経て、東北大学教授に就任。
東日本大震災では最前線で東北大学の救命部隊を指揮。
震災復興プロジェクトに従事し、文部科学大臣賞を受賞。
平成28年より文部科学省付き医官として日本医療研究開発機構(AMED)に出向し、行政の立場から先進医療戦略を担当。
平成30年5月、東北大学を退職し、姫路の未来のために帰郷

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