私は、昭和39年の元日の夜、姫路市内の長瀬産婦人科で父、功章(こうしょう)、母、淑子(としこ)の第三子として生まれました。予定日を2週間も過ぎたころに生まれた体重4,200gもある過熟児でした。まだ、家庭に電話も普及していなかった時代、年末年始の忙しい時期でもあり、母は付き添ってくれる人もなく、一人で頑張って私を生んでくれました。母からは事あるごとに、「秀泰、おまえが生まれた元日の夜は、正月特別料金と夜間料金もかかった。だから学校は全部、金のかからない公立に行くんだよ」と、言われました。
私は、飾東町清住という田舎の山村で育ちました。当時、父は県会議員を務め、母は農業と衣料品店を切り盛りする兼業農家の生活でした。8歳年上の長女と6歳年上の次女が忙しく働く両親の親代わりとなり、私を育ててくれました。長じて、長姉は病院の薬剤師となり、「シュバイツァー博士」や「野口英雄」の伝記を私に買い与え、医療の道を薦めてくれました。次姉は中学教諭となり、教育職の尊さを教えてくれました。姉たちはこのように折に触れ、私の進路にも大きな助言をくれました。
母は忙しく、私は3歳からは飾東保育園に通園することになりますが、早生まれで体格の小さな私は、虚弱で不活発、内気でひ弱な子どもでした。保育園に行くのが大嫌いで、送迎バスが来ると山の中に逃げ込んだりして逃げ回り、仕事に行かなければならない母をよく困らせました。
谷内小学校は当時から、1学年に1クラスしかない過疎の小学校でした。クラス替えもなく、担任の先生も優しく、子ども一人一人に目の届く環境の中、学校が大好きで、友達と楽しく、元気いっぱいに通っていました。そんな小学生時代、私にとってその後の人格形成にも影響する忘れられない2つの大事件が起ります。
続く
昭和39年(1964年)元日生まれ、55歳。
姫路市立谷内小学校、城山中学校、兵庫県立姫路西高卒。
香川医科大学へ進学し、医師となりテキサス大学に留学。
帰国後、香川大学附属病院講師を経て、東北大学教授に就任。
東日本大震災では最前線で東北大学の救命部隊を指揮。
震災復興プロジェクトに従事し、文部科学大臣賞を受賞。
平成28年より文部科学省付き医官として日本医療研究開発機構(AMED)に出向し、行政の立場から先進医療戦略を担当。
平成30年5月、東北大学を退職し、姫路の未来のために帰郷