【第2話】清元秀泰のふるさと姫路への思い(2)

【第2話】清元秀泰のふるさと姫路への思い(2)

友達と楽しく、元気いっぱいに学校に通っていた小学生時代、私にとって忘れることのできない2つの大事件が起ります。
1つは、友だちと火遊びして起こしてしまった山火事事件、そしてもう1つは、父の獄中選挙です。

山すそ野の秘密基地で誕生会
またたく間に周辺は火の海に

元日に生まれの私は、毎年お正月行事にかき消され、お誕生日会をしてもらった記憶がありません。家族も友人も、私の誕生日を忘れていました。そんな私にとって、「ケーキに年の数だけロウソクを差して、ハッピバースデーツーユと歌って『ふ~っ』と吹き消すこと」は、ずっと夢でした。同じ村から通学する同級生の「やっちゃん」と「なんちゃん」が、そんな私のためにお墓の燃え残りのろうそくを集め、山すそ野の秘密基地で誕生会を開いてくれました。地面にろうそくを差して立て、マッチで火をつける。それを「ふ~っ」て、吹いたらろうそくが倒れ、乾燥した枯れた草木に燃え移り、またたく間に周辺は火の海になりました。3人で山から転げるように走って逃げて家に帰りました。自宅の2階から燃える山を眺め、そして村の人たちがバケツリレーで消火活動に当たっておられるのをみて、心からごめんなさいと思いました。この山火事は、村の人たちの必死の消火活動で、小さな範囲だけで何とか食い止められました。清住の村の人たちの団結力と迅速な行動に助けられました。村の人たちには一生、頭が上がりません。

突然起きた父の事故
母と乗り越えた獄中選挙

そしてもう1つの事件です。それは私が今までの人生で一番つらかった事件で、小学4年生の時に父が起こした地元での交通事故です。父は春の統一地方選挙を控え、自ら運転する自動車で遊説中でした。そんな中、家まであと5kmのところで、自転車で通学中の女子高生を車ではねてしまいました。すぐに病院に搬送したものの、治療の介なくその女子高生はお亡くなりになってしまいました。父は選挙を控えていましたが、道路交通法違反、業務上過失致死で収監されました。そして結果として獄中選挙を迎えることとなりました。大切な一人娘さんを突然、失ってしまったご両親の無念さを思うと、今も胸が苦しくなります。また、当時の世間の厳しい非難は事故を起こした父だけでなく、学校に行けば小学生の私にもその村の子どもたちから容赦なく浴びせられました。

母は毎日毎日、被害者のお宅に謝罪とお悔やみに足を運びました。長男の私は母と一緒に行き、何度も何度も畳に頭を擦り付けるように謝り続けたことを思い出します。その後も、母は月命日には必ずお悔やみを忘れたことがありませんでした。この交通事故で、父の4回目の県会議員選挙はほぼ獄中選挙となり、立ち合い演説会は候補者不在で行い、候補者自身が政策を訴えることは叶いませんでした。それでも多くの人が演説会に来てくださることを励みに、母と私でなんとか演説会を乗り切りました。
私は、ただ父のまじめな人柄、政治家としていつも地域のことを一番に考えていることを、子供の言葉でみなさんに伝えることしかできませんでした。県会議員選挙の投票開票日、多くの支持者の方々とテレビの選挙速報にかじりついて見ていました。最後の議席で父の当選確実が出た時、私は自分の頬を伝わる涙を拭きながら、辛かった選挙戦を振り返り、自分は「大人になっても絶対に選挙に出ない」、そう心に誓った11歳の春でした。
続く

<清元ひでやすプロフィール>

昭和39年(1964年)元日生まれ、55歳。
姫路市立谷内小学校、城山中学校、兵庫県立姫路西高卒。
香川医科大学へ進学し、医師となりテキサス大学に留学。
帰国後、香川大学附属病院講師を経て、東北大学教授に就任。
東日本大震災では最前線で東北大学の救命部隊を指揮。
震災復興プロジェクトに従事し、文部科学大臣賞を受賞。
平成28年より文部科学省付き医官として日本医療研究開発機構(AMED)に出向し、行政の立場から先進医療戦略を担当。
平成30年5月、東北大学を退職し、姫路の未来のために帰郷

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