【第3話】清元秀泰のふるさと姫路への思い(3)

【第3話】清元秀泰のふるさと姫路への思い(3)

私を見守り育ててくれた二人の恩人

谷内小学校時代、一学年に一クラスしかない小さな学校で過ごしました。クラス替えもなく、担任の先生も優しく、子ども一人一人に目の届く環境で、楽しい仲間と元気に学校に通いました。一方、家庭生活の中では、忙しい両親の代わり、優しく、時に厳しく、私を見守り育ててくれた二人の恩人のことは忘れられません。

いつもサングラスをかけていたタネちゃん

一人は乳母のタネちゃん。タネちゃんは近所で駄菓子屋さんを営んでいました。小学校から戻っても居場所のない私はタネちゃんの駄菓子屋で、家族が帰ってくる夜までの時間を過ごしました。今でいえば、学童保育がタネちゃんの駄菓子屋でした。そのままそこで夕食を食べ、時にはお泊りすることもありました。タネちゃんの家は、私より7つ年上の野球少年のとしのぶちゃんとおばあさんの3人家族でした。京都清水寺門前のお茶屋さんで生まれ育ったタネちゃんは、大恋愛の末に姫路の片田舎、清住に嫁ぎました。としのぶちゃんを授かるも、旦那さんは愛人を作って失踪。結局、失踪した旦那さんのお母さん(お姑さん)と暮らしている。そんな子どもには複雑すぎる大人の話も聞きました。

タネちゃんはいつもサングラスをかけていました。夜になってもサングラスを外しません。ある日、私はタネちゃんに「なんでいつも黒メガネしてんの?」と、聞きました。タネちゃんは一呼吸をおいて、「私は目が飛び出でる病気でね、メガネはずしたら、みんながびっくりすんねん」と。そして、そっとサングラスをはずすと、「こんな恐ろしい病気やさかい、旦那も逃げてもた。でも、あんたのお父さんやお母さんは、分け隔てなく私を大事にしてくれる。」と、明るい声で言いました。

同じような病気で苦しむ人を救ってほしい

時に、容姿や障害を抱えている人を簡単に差別しますが、父母はそうでなかったようです。サングラスをはずしたタネちゃんの目は確かに、前方に突出していました。これはバセドウ病による眼球突出ですが、無医村の清住では奇病です。ずいぶん差別も受けたことでしょう。タネちゃんにはバセドウ病による外見の問題に加え、動悸や息切れもあり、外で働くこともできませんでした。そのため、自宅で駄菓子屋を始め、私の乳母も務めてくれたわけです。もちろん、タネちゃんは私を我が子のように大事にしてくれましたし、私も何の抵抗もなくタネちゃん一家と毎日を過ごしました。

その後、としのぶちゃんは東洋大姫路に進学。高校野球に打ち込み甲子園を目指し、3年生の時は県大会決勝で残念ながら敗れ、甲子園出場は逃しました。その後、後輩たちが甲子園に出場し、全国制覇を成しえる数年前の出来事でした。私が今もなお、野球が大好きなのは少年時代に一緒に育ったとしのぶちゃんの影響が大きかったらだといえます。
タネちゃんは、私が医者になったことを大変、喜んでくれました。同じような病気で苦しむ人を救ってほしい、そう言いながら、一昨年、亡くなるまでずっと私のことを気にしてくれていました。タネちゃんが私の育ての母であるなら、育ての父はウツミさんという初老の男性でした。ウツミさんは私の政治信条の原点であり、今の活動に大きな影響を与えてくれた人物でした。

続く

<清元ひでやすプロフィール>

昭和39年(1964年)元日生まれ、55歳。
姫路市立谷内小学校、城山中学校、兵庫県立姫路西高卒。
香川医科大学へ進学し、医師となりテキサス大学に留学。
帰国後、香川大学附属病院講師を経て、東北大学教授に就任。
東日本大震災では最前線で東北大学の救命部隊を指揮。
震災復興プロジェクトに従事し、文部科学大臣賞を受賞。
平成28年より文部科学省付き医官として日本医療研究開発機構(AMED)に出向し、行政の立場から先進医療戦略を担当。
平成30年5月、東北大学を退職し、姫路の未来のために帰郷

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